妄想と現実のあいだ

とりとめもない言葉と写真、ときどき絵

服屋に行くための服がないという問題

服屋に行くための服がないという問題(以降服屋問題と書く)は、
服屋に行くための服(初期リソース)がないということしか提示していない。
問題解決にどれだけのことを試みたかということを言及してはいない。
このとき、ある程度の知識と経験を持った人からは正常性バイアスをまず疑われる。
というより自分でも正常性バイアスをまず疑う。
正常性バイアスについて簡単に説明する。
正常性バイアスとは災害や事故などの被害が予想させる事態において都合の悪い情報を無視したり、リスクを過小評価してしまう傾向のことだ。
つまるところ我々の持つ認知の偏りである。
服屋問題にあてはめるなら
「服屋に行かなくてもなんとかなるというリスクの過小評価があるのではないか?」
ということである。

また実際のところ、問題解決そのものが問題と同程度かそれ以上に厄介事としてあつかわれてしまう可能性もある。
問題解決という行為は、これまでの行動パターンを変化させる必要が生じることが多い。
ごくごく個人の問題であれば正常性バイアスの問題に還元されるが、ここで言いたいののは行動パターンの変化が周囲にとって厄介事であることだ。
変化によって日常の規則性からの逸脱し周囲の円滑な日常をかき乱すことに繋がるという事実だ。
円滑な日常をかき乱す行為に対して同意を得ることは難しく、勇気のいることだ。
ここでは意志の力が必要になる。
ここでも服屋問題にあてはめてみる。
服屋に行くための服がない、あるのは葉っぱ一枚だけだ。
葉っぱ一枚で服屋まで行ったらどうなるだろう。
周囲から厄介者だと思われる、下手すれば通報されるのではないだろうか?
そしていざ服屋にたどり着いても、店主に門前払いをうけて服を買えないのではないだろうか?
これを実践しなんとか服を買うまでにたどり着けた人は、それまでの道程で顰蹙を買うこともあるし、服屋の店主ともめたりもした。
その人は、服を買うことへの意志の力があったと言える。

しかし、意志の力があれば服を買えるわけではない。
意志の力によってリスクをとったと言えるだけだ。
葉っぱ一枚で歩くその人を見て精神的なショックを受けた人がいたかもしれない。
その人が服を買った店の評判は落ちたかもしれない。
そして何より、途中で通報されて服屋にたどり着けないこともあるだろう。
(もちろん、ポジティブな影響があったかもしれない)
意志の力がなければ問題解決はできないが、意志の力があれば問題解決できるわけではない。

では、問題解決が可能かどうか事前に判断したり、失敗のリスクを見積もることは可能だろうか?
これは容易なことではない。
なぜなら、問題の全容は問題解決に取り組んでみないとわからない不確定な要素に満ちあふれているからだ。
ただ全てを把握できない中でも、致命的な失敗を避けるためには事前の準備や計画が必要だろう。
また、全てが解決できなくても、問題を細分化したり、問題対象の分析によって漸進的な解決に着手することができるだろう。

「意志の力」で問題に立ち向かうのは勇気である。
私としては勇気というものを賞賛したい。
しかし、それが無策無謀の行動なら批判するだろう。
立ち向かうに相応な冷静さと知恵を持てと。
と書いてみたが言わないな。それらの能力があること、もしくは身につけることをただ祈るだけだ。
そして、致命傷にはなりませんようにと。
つまるところ、事前の準備をどうするか、どのように問題を分析するかというプラグマティックな話をここでは書かないということだ。
そこに自分の報酬系がうまく働かないところに、自分の服屋問題があるように思う。
報酬系や美意識などとともに、結ぼれてしまっているのだ。
そこから出てくる言葉は裸でいいじゃん生きられれば。

芸術における価値とはなんだろう?

価値は目的にかかわる現象であり、芸術の価値は芸術の位置づけけの問題である。

そして、この現象の起点は欲望に根ざしている。

では欲望を満たすものが単純に価値であろうか。

喉が渇いたので水が欲しいから水は価値であると言ったとき水は確かに固有の「使用価値」を持っている。水を得るための貨幣は相互関係の中で「交換価値」となる。(古典的価値論)

 

例えば、ある欲望xを起点とし相互関係の中でyを望むべきと考えたとき、yは価値となる。

つまりこの場合の欲望と価値の関係は

f(x) = y

となる。

価値は相互関係の中で動的に変動し客観化され見出され、価値は客観的側面と主観的側面を持つと言える。


そして、芸術は相互関係の中で相対化され位置づけられる。

同語反復的になるが、芸術の価値は芸術の価値の位置づけによって変化する。

希死燃料

火葬場から偶然発見された、新エネルギー。

自殺者から再現性を確認したのを皮切りに、生きている人間の希死念慮から取り出す技術が確立し希死燃料と命名された。

最初は全身タイツの装置を身にまとい希死燃料を取り出していたが、最新の装置では物理的な接触なしに希死燃料をとりだすことができるまでになった。

装置をベッドのシーツとして敷いて、寝て起きれば希死燃料の取り出しが完了している。

健康な人でも希死念慮はあるもので、一晩でスマホの充電ができるくらいのエネルギーをとりだすことができる。

10人に1人くらいは希死念慮が強く、生活に必要なエネルギーを希死燃料だけで賄えるオール希死燃料生活が可能だ。

更に希死念慮が多ければ政府が希死燃料を買い取ってくれて、不労所得を確保できる。

希死念慮が強ければ便利になりやがて、希死念慮は弱くなる、そうなると不便になり希死念慮が増える。

感情に振り回されるようになり疲弊してくる。

もう、動く気力もない。

しかし、死にたいと思うことはない。

 

予兆に対して

数年前、私が深夜のファーストフード店でポテトを食べながら小説執筆の作業をしていたときのことです。

挙動不審な男性が店内で飲食している人たちのテーブルを巡回し「ポテト1本ちょうだい」と要求してまわっていました。そして、わたしのところにその男が来たとき

私は彼と話をしてみたいと思い、ポテトを全部あげるから私と話をしようと彼に返答しました。

彼は詩をしたためている創作ノートを見せてくれました。
そして、精神病院に何度か通院していたが通院を中断してしまったことを語ってくれました。
また、今は希死念慮があり、自宅には帰りたくないと不器用な笑顔から話すのです。

私はとりあえず再び通院することを勧めたました。
「行きたいけど行けない」
彼は言います。
私にできることはないかと訪ねてみました。
「警察に連れてって欲しい」
私は彼と最寄りの交番へと行ってみました。
警察の対応は渋いものです。
当然と言えば当然かもしれません。
そんな警官を前に彼の言動は「大丈夫」と一転しました。
時刻は午前3時頃、彼が通院していた病院は入院病棟があり深夜でも一応相談できると思い、彼の承諾を得て病院に電話し相談してみました。
得られた返答は、親族でもない私が電話したところで彼が何かしでかしたわけでなければ対応は難しいというものです。
私は時刻的にも体力的にも限界で彼に明日にでも病院へ行くよう一応すすめて別れました。
その後、彼がどうなったかはわかりません。

本人がある程度落ち着いて話すことができ、加害、自傷・自殺行動の予兆のようなものがある段階で積極的に介入することは難しいことです。
病院へ行きたくない気持ちと、逼迫した精神をどうにかしたいという気持ちに対して少し踏み込んで何かできないものでしょうか?
私が思うに、彼が何かことを起こすことを「待つ」しか公的な介入は難しいように感じます。
彼がことを起こさずなんとかやっていけるかは、社会の持つ心理的安全性にかかっているのかなあなどと漠然と思い浮かんだ。